介護のあとさき:「あんたの顔が変だから、私は風呂に入らない!」 ~認知症の方とのお付き合い 受容と関係づくりの一考察~
2020-08-31
「あんたの顔が変だから、私は風呂に入らない!」 ~認知症の方とのお付き合い 受容と関係づくりの一考察~
老健のフロアが夫と経営してきた蕎麦屋であったり、グループホームがかつてご自分が乗っていた商船であったり、特定の職員が夫(妻)であったり‥‥。認知症のお年寄りと関わる中で、作話と呼ばれる症状とよく出くわします。「事実ではないことをあたかも現実の出来ごとのように思い出すことがあります。脳の損傷をうけて、記憶が断片化し、それを補完するために、ないことを事実としてつくってしまうのではないかと考えられています」(京都大学広報誌2016年5月30日(月)1限「記憶は脳の中でどのように表現される?」月浦崇准教授)。
もう一つWikipediaから。「作話(さくわ)は、記憶障害の一種である。 過去の出来事・事情・現在の状況についての誤った記憶に基づく発言や行動が認められる点が特徴的である。 作話は、「正直な嘘」と呼ぶべきものであり、通常は本人は騙すつもりは全く無く、自分の情報が誤りであるとは気がついていないので、この点で嘘とは区別される」
●原則と線引き 「今日からあなたのすべてを受け入れます」
見当識が損なわれ、記憶を介して周囲の環境と結びつく事が困難になった認知症の方が、自身の心が混乱の淵に落ちるのを防いだり、自尊感情を守るための「作話」は受容すべき、というのは誰もが認めるところでしょう。しかし、認知症の方とのお付き合いでいつもいつも一筋縄でいかないのが、“線引き”です。当然、断片化した記憶を補完し、実際には「なかった」ことを「あった」とするには、その人を突き動かす何らかの内的要因=感情が存在します。そして、感情にはそれぞれのパーソナリティに応じ、無意識のレベルで様々なバイアスがかかります。自尊感情を守るためであっても、場合によっては、自分を実際以上に大きく見せる計算をしたり、あるいは無意識に他者を貶めるといったネガティブなバイアスが見え隠れすることがあります。ですから、定義は「なるほど!」ですが、実際の現場でわれわれが感得する「正直な嘘」と「不正直な嘘」の線引きは曖昧で、ピュアな作話にはなかなかお目にかかれません。また「正直な」嘘であるだけに、そうしたとき私たち介護者は、気持ちの裏を読んだ思いがして、少しの自己嫌悪と少しその人から心が離れる経験をします。
私たちのようなグループホームもそうですし、その他の施設でも、実に様々な方がご生活をされています。自立度の高い方も居られれば、すでに発語が失われてしまった方も居られます。もう一つ“線引き”に関して厄介な問題を挙げてみます。長谷川式スケールで知られ、われわれ介護者を常に励まして下さる精神科医の長谷川和夫先生が自身の認知症を明かしたのは3年前。ご自身が当事者になって、近著で強調されているのが、人生は「連続している」ので認知症になったからといって突然、人が変わるわけではない、ということです。
「〇〇さん、ただ今、あなたはアルツハイマー型認知症の診断を受けました。今日からあなたの言動は全て受容いたします」というのは、やはりどう考えても不自然ですよね。
認知症の人の全ての言動を受容するというのは、ある面で認知症の人を「お客様」「みそっかす」扱いし、関係世界から切り離して、孤立させる恐れがあります。一方で、病院や、滞在期間の短くて規模の大きい施設形態では、最大公約数として受容を前提とした関りが有効であることも理解しています。ただ、われわれは少人数でなおかつ終の棲家のグループホームですので、お一人おひとりに合わせたオーダーメイドの介護を提供するのがその使命です。過去に私たちのホームであった事例を基に、受容と認知症の方との関係づくりについて、皆さんと考えていきたいと思います。
K氏は中度の認知症で、徐々に定型化された生活パターンから外れることが億劫になっている80歳代の女性です。入浴も氏にとっては日常から離れたイレギュラーな行為となりつつあるため、生中の事ではその気になってくれません。冬場、敢えて放っておいたら、とうとう9日も風呂に入らなかったことがありました。6日目、7日目になるとさすがに後ろめたい様子が見られ、8日目の入浴の時間が近づくと、職員から「もういい加減に入ったら」と促されるのを見越して、唐突に目にはいった職員へ「誰もあたしを風呂に誘ってくれない!」と、先回りして八つ当たりをし始めます。言われた方は腹が立つやら呆れるやらですが、挙句の果てに「あんたの顔が変だから入らない!」とまで言われると職員も腹の虫が収まりません。頭から湯気を立ててスタッフルームに帰ってきます。
ここで職員が取りうる態度は①認知症の人への対応の基本は受容だから、何を言われても飲み込んで耐える②無視し、そうした発言はなかったかのように振舞う③腹を立てる――です。
認知症介護の教科書に載っているのは①と②の対応だと思います。ただ、すべての方に教科書の原則が当てはまるわけではありませんので、個別ケアの原則に照らしてK氏の立場に立って考えてみます。すでに職員は、認知機能の低下により不安やストレスを感じやすくなっていることを全員了解しています。不安が強いので、入浴時に脱いだ洗濯物の枚数に誤りがないか、毎回仕上がり時に職員へ確認を求めます。その一方で、理非を弁えているからこそ駄々をこね、その背景には職員への甘えと信頼がある、と考えました。グループホームで行う①と②の対応の根底には、どこか「認知症だから何もできない、分からない」という諦念と無責任さが流れています。当然、この結論はKさんには少し早すぎる気がします。もしこの感覚が生活援助の場面で適応されると「~して差し上げる」式の介護になります。関係作りにおいては、一見その場は穏やかで波風は立たなくても、その方の心にはつながりを絶たれた隙間風が吹くのではないでしょうか。
●反抗期の子供に薬は飲ませないのだから‥
「顔が変だから」と言われて腹を立てる(③)のは、一見大人気なく、プロとしてあるまじき行為に見えます。ですが、怒るには勇気もエネルギーも要りますし、顔が変と言われて腹を立てるのは普通の人間関係では当たり前のことです。でも、闇雲に腹を立てるだけでは、認知症ケアでも何でもありません。関係作り援助は、その周囲が“チーム”としてなだめ役や叱り役、とりなし役を担い、最終的に「あんなひどい事言って。ちゃんと謝んなさい」「そうね、ごめんなさいね」という落着を目指すのが本来の援助の姿だと思います。落着に至るまでは、それなりの時間を要し、波風が立つかもしれませんし(そもそも望んだ結果に至れないことも少なくないと思いますが‥)、これも人と人とのつながりを築く上で必要不可欠な大切な時間ではないでしょうか。また、こうしたことは本来、人として分け隔てがなければ、意識せずともできることかも知れません。
自分の間違いをちゃんと正されなかった子供が、その後の人生でどれだけ遠回りをするかを見るまでもありませんが、“二度わらし(こども)”とも言われる認知症の高齢者の方も、真摯な関りの大切さという点において重なる部分はあると思います。まして人の心は複雑です。「怒られる」という形でも、心の底では他人にしっかり向き合ってもらいたいと感じている場合もあります。
さらに、わらしに帰っていく過程で、再び反対方向から思春期を通過することになるかも知れません。ならばその間に「反抗期」があっても不思議はないはずです。ある職員が「反抗期のこどもには薬を飲ませないのだから、行動・心理症状を示しているお年寄にも薬はいらないんじゃないですか」と言っていましたが、本当にその通りだと思います。薬よりも、まずその人の関係作り能力に応じ、しっかり向き合うことが大切だと思います。
擬似家族的なグループホームは、仕事を通じて認知症の人との理想の共生を探していく場でもあります。お気持ちや残された力をしっかり見定め、記憶や認知能力が低下した人とも自然に心を通わせることのできる人間形成と成長を目指したいと考えます。
長々お付き合い頂きましてありがとうございました。
これからもグループホームや認知症介護などのあれこれを掲載させて頂こうと思います。お時間の許す時にのぞいて頂ければ幸です。
グループホーム ソフィアいずみ 小泉 覚