介護のあとさき:ケアプランさんとの上手なお付き合い
2020-09-08
ケアプランさんとの上手なお付き合い
「うちもね‥」「実は‥」「やっぱりね‥」――。
数年前、ケアマネ専門研修課程Ⅱを受講したときのこと。座学のコマが済み、気の重かった宿題が片付いてグループとしての発表も一段落。グループ内の受講者の職場やキャラ、仕事内容もお互い何となく分かって、研修もようやく先が見えてきた頃です。講師の先生やファシリテーターさんがグループの島を離れた隙に、サワサワサワサワとこうした囁きが会場に広がります。話の内容は物盗られや抑うつ、暴力・暴言、介護拒否、収集癖、対人トラブルなどの「課題」がいくら努力しても大して変わらないというもの。この囁きが、出会ってまだ日の浅い者同士の共感の下地を作っていきます。
もちろんケアプランは、その都度対象者の評価をしっかり行って、課題や目標、プラン内容を常にブラッシュアップすることで、高齢者の暮らしを支えるための心強い武器となっていることに異論はありません。とりわけ、ケアプランを有効活用した身体面の課題解決は、その人の暮らしの可能性を大きく広げています。
●居座り続ける課題と介護者の不全感
「8年前もTさんは“他者とのトラブル”が課題だったのですね」
新人職員さんが何気なしに発したことばです。言われてみればその通り。入居以来、Tさんの対人トラブルは「課題」としてプランの中にずっと居座り続けてきました。「もう少しちゃんとアセスメントなさい」というお叱りが聞こえそうですが、敢えて申し上げれば、そこには構造的な問題があるような気が致します。
そしてこの構造的問題は、介護者がときに募らせる無力感、不全感と無縁ではありません。決して怠けているわけではなく、一生懸命、課題解決に努めているのに、一向に成果は上がらない‥。また、研修によっては、とても現場では使いこなせないような細かなアセスメント手法を伝授され、諦めと無力感が増すばかり、という経験をしたのは私だけではないでしょう。
ケアプランの立案、運用の基本は、一般に健康・安全・自立支援・安心・その人らしさ・支援体制などの領域から、課題は何かを抽出し、課題をとり除く方法を考えます。繰り返しになりますが、われわれは介護現場において現実的にこうした“科学的”なアプローチ以外に有効な手立て、手法を知りません。確かにエビデンスを基にしたデータサイエンスで予測できるのは、現在の延長線上にある未来であって、非連続的な変化に創造的に対応することはできないと言われますが、それでもいま持てる最良のアプローチ法であることは揺るがないでしょう。ただ、どんなに有効な手法であっても完璧なものではないという見方を手放しては楽観的に過ぎると思います。
他の分野でしたら、取り組み自体はいかに困難なものであっても、難病の治療法の確立、2年後の黒字化に向けた経営改善策、統計的に有意差のある結果――など、課題や目標設定自体は至ってシンプルです。ですが、われわれ介護者が考慮しなければならない対象には、意欲や生活の充足感、その人らしさ、幸福感といったものも含まれます。そして、私たちの頭は、何かを「課題」とした時点で、それは「解決」を前提としたものになる、という思考の枠組みを持っています。
普段は気の良いTさんですが(すでに幽明境を異にされています)、いつの頃からか、すり減らしてしまった自尊感情を守るために、時として目に付く物事にいちいちに口をはさみ、周囲をうるさく叱責するようになりました。対人トラブルに発展することもしばしばで、このため“他者とのトラブル”がケアプランの中に「課題」として位置付けられてきたのですが、そうこうするうちに、うちのホームのいい加減さが幸いし、あれはもうTさんの“個性”だから諦めよう、別に今のままの頑固爺さんも味だよということになりました。それはそうでしょう。90年生きた果てに出来上がった性格を今さら直せと言う方が無理です。解決を目指すより、「しょうがないねぇ」と受け入れ、あきらめ、(できれば)笑いながら同居すべき筋合いの事柄ではないでしょうか。そうなると諦めのドミノ倒しです。Fさんのペーパー蒐集だって(ご本人にとっては仕事)、Sさんの引きこもり(もはや個性の一部)だって‥。
当然、受容的な対応も十分プランの中に位置付けられるもの、というご指摘もあると思います。ですが、先ほども言いましたように、思考のパラダイムとして「課題」として設定した時点で、「解決」に向けたレール上で強力なエンジンがうなりを上げ始めます。高々、言い回しと思われるかもしれませんが、言葉には呪いの側面もありますので、侮ってはいけません。気づくと、解決に導けない自分を、能力のない怠け者と感じています。だから、研修の時のひそひそ話に共感が広がっていきます。
●向き不向きを踏まえて有効に活用を
何か困難に出会った時、われわれは様々な反応をします。課題の解決だけが唯一の道ではないはずです。みなさんも実人生では遠回りをしたり、諦めたり、逃げたり、様々な対処をされていると思います。また、私は不幸にして、ご自身の人生を適切にアセスメントして課題抽出し、プランを実行して幸せになりました、という人を未だ知りません。
1、2年前だったと思いますが「サピエンス全史」という本がビジネス書の分野でベストセラーとなりました。私にはずいぶん難しい内容だったのですが、それでも、サピエンスより大きな脳を持ち、身体的にも恵まれたネアンデルタール人がなぜ滅んだのか、あるいは、サピエンス繁栄のカギはフィクションを生み出し信じることのできる能力にある等々、刺激的な示唆に富んだ内容でした。なかでも、これまでの史書になかった最大の切り口が“幸福”の観点から人類の歴史を振り返ったことです。例えば、採取・狩猟生活から農耕社会に移行したことで、単位面積当たりの生産性は上がり多くの人を養えるようになって、サピエンスの種としての生存能力は強化されました。ですが、個としては多様な生産基盤を失って土地に縛られるようになったことで自由が犠牲になり、同時に侵略から土地を守るため争いの必要も生じて、個人の幸福度は大きく下がったとしています。
これまでは、「幸福」といったものは数値化が困難なため科学の対象からは外されてきました。しかし、最近ではイギリスの統計学者ニック・マークスのように、なぜ国の成功を「国民の幸福と福利」ではなく「国の生産性」で語るのかと問う人も出て来ていますし、サピエンス全史の著者も同様です。
その意味で、介護は利用者の幸福を考える仕事でもありますから、最先端とも言えるかも知れません。
最後にもう一つ逸話をご紹介してこの雑文を終えたいと思います。精神科医の名越康文さんが先日、ご自身のYouTubeチャンネル(「名越康文TVシークレットトークyoutube分室」#0196)で、グラミー賞を十数回受賞しているカナダの音楽プロデューサー・デイヴィッド・フォスター氏について、次のように語られています。「この大プロデューサーは何とエレベーターに乗れない。今まで何十万段上ってきたのでしょう。10階にスタジオがあれば、そこまで自分の足で行く。もしも彼が、エレベーターに乗れない(閉所恐怖症)がために、自分は大人になれないと思い悩んでいたら、彼は自己実現できなかった。しかし彼は閉所恐怖症を放っておいた。閉所恐怖症を克服するのではなく、自分の人生の花を咲かせることに注力したわけです。これは正しいです。積極的に自分の欠点に注目して、深く内省しなければならない時もありますが、一番まずいのは『閉所恐怖症さえ治れば私の人生は完璧だ』『恐怖症が治らない限り、私の人生は最悪だ』というもので、これを神経症と言います」。
ケアプランが苦手なのは、数値化が困難なものや、課題と解決の枠組みに収まらないようなものでしょう。餅は餅屋。ケアプランには得意分野で大いに働いてもらえば良いと思います。
解決にこだわるあまり、気がつくと本来一番基層にあるべき共感や親愛、許しや良い意味でのあきらめといった事柄が抜け落ち、暮らしの豊かさとはあまり縁のない表層の「課題」のみが空回りしてしまっては元も子もありません。
腑分けして摘出し、異物として取り除かれるべき「病巣」としての「課題」――。それだけでは人のすべてを覆えるものではなく、長い人生を歩んでいく上で、時にあきらめ、受け入れるということも大切でしょう。そして、その最たるものが“老い”かも知れません。
ケアプランさんのつぶやきが聞こえてきます。
「ケアプランですけど、あんまり期待されても、少し荷が重いですわ‥」
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