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ソフィアGHのお知らせ・ブログ

介護のあとさき:認知症の方の心に宿る

2020-11-30
認知症の方の心に宿る
●「お天道様はお見通しだぜ」
 子供の頃、夕方、時代劇の再放送を見ていると、正義の味方のお奉行が「お天道様はお見通しだぜ」という決め台詞で最後に悪事を暴く場面をよく目にしました。かつては躾においても、良心に恥じない行いをしなさい、という意味合いで使われてきましたが、自動運転の車のCMがテレビで流れたり、AIの将来やシンギュラリティが議論される昨今、なかなかにレトロな言い回しになってしまって、ドラマの中ですらあまり聞かなくなりました。
 何年か前、アメリカ合衆国のハーバード大学に入学される方のうち、信仰をもたない人の割合が持つ人の割合を上回ったという記事を読んだことがあります。日本人のわれわれには「ふーん」という感じですが、バイブル・ベルトと呼ばれる中西部から南東部のエリアでは、州によって進化論を教えることを禁じる法律を制定しているところもある彼の国では、ちょっとした衝撃だったようです。わが国では西郷隆盛が「天敬愛人」を遺訓に収め、人知を超えたものを内に宿して自身の行動を律したことは有名な話です。しかし、不信心者の自分を顧みてもそうですが、徐々に合理的な考え方だけで人生を割切る方が世界的に増えているのだと思います。
 
 
●脳には倫理を判断する領域が
 ただ、最新の脳科学に触れて、“お天道様”はあながち前近代的な迷信で、文化的には保守性を物語るだけの台詞ではないとの思いを抱きました。
 認知神経科学者の中野信子さんのYouTubeチャンネルから。テーマは「悪口」です。
 
「(悪口を言ってもスッキリしない理由は)二つあります。倫理的な理由でスッキリしないというのと、もう一つは悪口を言ったことが人づてで本人に伝わってリベンジされるのではないか不安が生じる。この二つが理由なのです。一つ目の理由を“倫理的な理由”と申し上げたのですが、実は人間の脳には倫理を判断する領域というのが元々備わっていて、倫理から外れる行動をすると、そこが活性化してジャッジし、『これは正しい』『これは間違っている』と判定することが分かっている。何か倫理にもとる行為をすると、そこが働いて、『自分は悪い事をしています』とフィードバックをかけて、嫌な気持ちが生じるよう勝手にスイッチが入る。その理由でスッキリしない」(投稿日2020年2月23日「人の悪口を言う人の悲惨な結果」)。
 
 当然、お天道様への直接的な言及ではありません。皆さんもお分かりの通り、不遜を承知で申し上げますと「脳の倫理を判断する領域」に昔の方が与えた呼称が“お天道様”だったのでしょう(昔の方の知恵と謙虚さに感心します)。そして、西郷隆盛が日本近代黎明期の回転軸となり得たように、天=神様という「他者」を自覚的に心の中に宿すことで、昔の人は今のわれわれにはない強さと豊かさ得ていたのかもしれません。
 
 
●他者を心のなかに宿す
 話を「他者を心の中に宿す」ということに移します。自分の心に他者を宿せば当然、意見が割れて葛藤が生じます。昨今は葛藤や不安をまるで悪い物のように忌み嫌いますが、物事には様々な面があります。
 
「『恐れねばならないのは、アイデンティティを失うことではなく、他者を失うことである』齋藤純一
社会のみならず個人の生もまた、おのれの内に葛藤や抗争を宿した複数のかたちをもつ。単一の価値に凝り固まれば、私たちの思考もまた機能不全に陥ると、政治史家は言う。『他者を失うということは、応答される可能性を失うこと』でもあるからと。(略)」(朝日新聞「折々のことば」鷲田清一 2020.11.13)。
 
 単一の価値に凝り固まった人とは、収入の額だけで人を測ったり、自分の事だけしか関心がないとうそぶく人だったり、性的少数者を認めない、認知症の人に画一的な見方をする、といった人でしょうか。自分の中に「もしかして、それ違うんじゃない?」という葛藤がないわけですから、本人的には楽ちんなので大満足なのでしょう。われわれ介護の現場でもよく次のようなニヒリストを見かけます。どうせもらえる給料も多寡が知れているし、それならできるだけ楽をして、せいぜい給料に見合った仕事をしておけばいいや、という考え方をされる方です。ご本人的には、脳の中のお天道さんを抑え込んで、格好よく孤独を気取って割切った考えをしているつもりでしょうが、ご本人的にも職場的にも不幸です。
 不完全なわれわれは(社会も)、おのれの内にこうした葛藤や抗争というネガティブな要素を抱え込むことで、やっとどうにか健全でいられるという逆説をしっかり腹に据えておくことが肝要だと思います。そして、何より恐れるべきはネガティブな要素より、「応答される可能性を失うこと」です。現代に生きるわれわれの多くは、すでに「天」という他者を失っています。人として、さらに、つながりを大切にしなければいけない介護に携わる身として、自身も他者を失わず、同時にわれわれが関わっている認知症高齢者の方たちが心の中に他者を宿し、応答される可能性を維持し続けられるよう努力しなければなりません。
 アルツハイマー病の方は、徐々に記憶を介して周囲の環境とつながることへ困難さを覚えるようになります。病気の進行度合いや生活歴に応じ、一人ひとり必要な関りは異なりますが(ちなみにうちのホームのYさんは幼稚園の先生をされていたので、私のことを園長先生と呼びます。高校卒業後、郵便局にお勤めになったIさんは所長さん、造船所で現場経験のある故Kさんには親方と呼ばれていました。認知症の方が作る仮想現実の世界については、またの機会で考えたいと思います)、結論から申し上げますと、基本的なことは安心して頂ける環境を提供し、本来的な意味で寄り添うことです。
 
 
●他者とうまく重なっているときに安心することができる
 2019年の論壇の代表作として、東畑開人さんの「居るのはつらいよ--ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)が第19回大佛次郎論壇賞(朝日新聞社主催)を受賞しました。この本は、精神科診療所のデイケア施設の日常を描き、“ただ、いる、だけ“に斬新な角度から光を当て、改めてその価値を見出しています。東畑さんの著書から少し長くなりますが引用させて頂きます。
 
‥「遊びの精神分析」を打ち立てたウィニコットは次のように言っている。
精神療法は二つの遊ぶことの領域、つまり、患者の領域と治療者の領域が重なり合うことで成立する。精神療法は一緒に遊んでいる二人に関係するものである。以上のことの当然の帰結として、遊ぶことが起こりえない場合に、治療者のなすべき作業は、患者を遊べない状態から遊べる状態へ導くように努力することである(ウイニコット『遊ぶことと現実』53頁)
 ここで語られているのは、遊びの治癒力であり、遊びが二人の人間の重なるところで行われるということだ。ウィニコットはこの二人の重なるところを「中間領域」とか「潜在空間」と呼んでいる。言ってしまえば、遊びとは何かと何かのあわいに生じるものだということだ。(略)
 砂場で遊んでいる子供を思い起こしていただきたい。彼は熱中して砂のお城をつくっている。僕らから見ると、彼は一人で遊んでいる。
 だけど、ウィニコットに言わせると、彼は一人で遊んでいるわけではない。彼の心には「母親」がいる(当然のことながら、べつにこれは生物学的な母親でなくてもいい。お世話する人、つまりケアしてくれる人であればいい)。ここがウィニコットのわかりにくいところだ。少年は砂の城のことしか考えていないし、外から見ている僕らにも彼は一人で遊んでいるように見える。だけど、実際には彼の心の中にはきちんと母親がいる。それがわかるのは、彼の遊びが中断するときだ。
 少年はときどき手を止めて、後ろを振り返る。後ろのベンチには母親がいるのを確認する。そこに母親がいるか不安になるのだ。すると、遊びは中断する。このとき、母親はスマホでツムツムをやっていて気が付かないこともあるかもしれないけれど、多くの場合、手を振ってくれる。すると少年は安心して、ふたたび遊びに没頭しはじめる。
 そう、遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない。それが消え去ってしまうと不安になって、遊べなくなってしまう。少年は心の中で母親に抱かれているときに、遊ぶことができる。他者とうまく重なっているときに、遊ぶことができる。
 そして、この重なりは自己と他者のあいだでだけ起こっているわけではない。ふたたび、少年をよく見てみよう。外から見ると、少年のやっているのは砂の塊をこねていることだ。そのことは少年も良く知っている。「何をしているの?」と尋ねれば、「砂遊びです、ご覧になられればわかると思うのですが」と答えてくれるだろう(なぜか嫌味な少年が浮かんでしまった)。だけど、じつはそれは砂の塊であると同時に、この少年にとってはロボット帝国の勇壮な要塞でもある。少年はロボット帝国という想像の世界で遊んでいる。
 遊びは現実と想像が重なるところで生じる。そのどちらかしかなければ、それは遊びではない。「ただ砂をこねているだけですよ」となったら楽しくないし、「ロボット帝国の要塞なんです。本当にヤバいんですよ、いまこれをやらないと世界が滅びるんです」と脂汗をかいていたら、それはそれでヤバい。切実すぎて遊んでいるとは言えない
 遊びは中間で起こるのだ。主観と客観のあわい、想像と現実のあわい。子どもと母親のあわい。遊びは自己と他者が重なるところで行われる。それはすなわち、人は誰かに依存して、身を預けることができたときに、遊ぶことができるということを意味している。(152~154頁)
 
 この後も「同時に逆説も存在する。他者と重なることができるから人は遊べる一方で、遊ぶことによって、自己と他者を重ねることができる、という逆説」と、とても興味深いお話が続くのですが、ご関心のある方は是非ご購入されて一読されるのをお勧めします。
 未熟な自分ですが、マズローに倣うなら生理的欲求と安全欲求を満たした環境を担保した上で、ちゃんと認知症の方の心の中に棲めるようになって、実際に認知症の方が不安になって振り向いたとき、微笑んで手を振れる存在になりたいものだと改めて思います。認知症の人を理解するのは本当に難事です。おのれの内にこうした割り切れない複数の葛藤を割り切れないまま抱え続けるのは一見ネガティブですが、多くの葛藤や角逐が介護者や人としての豊かさ、思考の健全さにつながるのだと思います。いつも他者って厄介な存在で、時として泣きたくなりますが、生きる上で欠かせません。
 
 
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